ぶん文Bunレビュー(『バガヴァッド・ギーター』)
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今回のご投稿は「円」さんから。ずっとずっと前にご投稿いただいていたのに、更新が遅くなり申し訳ありません・・・。円さんからのレビューご投稿はこれが記念すべき10点目です!いつもありがとうございます。
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『バガヴァッド・ギーター』
昔から趣味でヨガをやっていたので、思想的な面を知るために一度は読まねばと思っていた本書です。(ぶん文Bunはヨガ関連の本も結構充実してますね)
さて、本書は『マハーバーラタ』という長大な神話的叙事詩に収められた一編なのですが、この『バガヴァッド・ギータ―』そのものがヒンズー教徒にとって重要な聖典であることを考えると、キリスト教の福音書や仏教の般若心経と同じように、教えの要点が凝縮されたものと捉えていいのでしょう。
哲学書や啓発書として読む人が多いとはいえ、聖書に次いで世界で多く読まれているようです。 『マハーバーラタ』全体は、主にカウラヴァ族とパーンダヴァ族という二つの部族間の争いの歴史と顛末を描いた話になっているのですが、この『バガヴァッド・ギータ―』では、パーンダヴァ族の王子であるアルジュナと、彼を導くクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)の問答という形で構成されています。
敵対するカウラヴァ軍には親、兄弟、友人、師がいるため、アルジュナは戦うことを躊躇い失意のどん底になります。そんなアルジュナに対し、クリシュナは戦士としての務めを果たすようにと、様々な問いに対して明快な答えでアルジュナを鼓舞していくといった内容になります。
常識的な考えでは「親族を殺すための戦争に駆り立てるとは、なんてひどい神様だ!」と思うかもしれません。 ですが、どんな人にもこの手の悩みはあるのではないでしょうか。また誰でも直面する可能性は大いにあります。
もちろん戦争そのものを舞台にするということではありません。 例えば、こうするのが正しいと分かっていながら、親族や友人を前にすると親愛や情けから正しさを貫くのが難しいと感じてしまう事があるかもしれません。そもそもこの正しいという考えは自分の価値観の狭い範囲内による正しさなのかもしれないと悩むこともあるでしょう。
また仮に正しいと思うことを貫いたとしても、その結果自分が大切にしていた人が苦しい目に遭うなら、悔やむのが普通かもしれません。
こういった問題から解放されるためにクリシュナが唱えた思想が“行為の放擲(ほうてき)”なのだろうと思います。これは、行為の結果起こることに一喜一憂することなく、ただ自分の行為そのものに専念し、それをブラフマン(宇宙の根源、梵天)に捧げるといった意味合いです。結果に執着しなければ心に波風が立つことも無く、寂静へと至り、ブラフマンとの合一に達することができるというわけです。
そこまでいかずとも、何かをしたときに見返りを求めるという執着心は、望んだ結果が返ってこない時には相当なストレスとなるはずで、そういった執着を捨て去ることができたなら、まさに日常でちょっとした涅槃(ニルヴァーナ)を感じることができるようになるのだろうと思います。言うほど簡単じゃないでしょうけど……。
そしてこれらを実践できないなら、結果的に以下のような状態になるというのは納得のいくところでした。
“執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。<第二章 62、63>”
改めて言語化されると空恐ろしさを覚える部分ですが、このような形で人生を破滅させたであろう人は毎日のようにニュースで観るのではないでしょうか。なぜこうも愚かな犯罪を犯すのだろうと不思議に感じますが、何のことはなく、事件の概要を見るにつけ問題の発端は毎度の如く何かの対象に対する執着心であることが分かります。最終的に知性が消失して獣のようになるのは必然と言えます。
一方で、バガヴァッド・ギータ―自体が戦闘意欲や征服欲を高めるような力も多分に含んでいる(と思う)ので、残念ながらそっちの方向でのみこれを読んでしまう人も多いかもしれません。
実際、インドは聖典やカースト制度を自分に都合のいいように解釈した犯罪が後を絶ちません。(聖典の教えを歪めるというのは、どの宗教にも言えることではありますが)
とか何とか言いながら、自分は性格的に短気な方なので偉そうなことは言えない……。まあ獣に堕ちない程度にはクリシュナの教えを守る所存です。 せめてあらゆる執着心から離れ、心を刺激せずに対象の全てを俯瞰し、何に対しても見返りを求めることなく公平な気持ちで接したいものですね。
いや、その境地に至れたらほぼほぼブラフマンと融合しているわけで、人間という生物種である以上かなり難しいわけですが。人類の不完全性故に文明はここまで発展したとも言えるので。
ではクリシュナの教えは我々にとって扱いずらいのかと言われればそんなこともないはずです。アルジュナも普通の人間と同じように悩み苦しみながら迷妄を振り払ったわけですから。 結論として、こういう時に“てげてげ”という言葉を使ったほうがいいかなと……。 てげてげに執着心を捨て、何ごとも欲張らずにてげてげで、結果に対する期待もてげてげに。
バガヴァッド・ギータ―もそんな風に捉えれば、人間万事塞翁が馬として生きていけるのではないでしょうか。
以上。
円さんのレビューはいつも名文揃いですが、今回はとりわけ凄いですね!インドの聖典『バガヴァッド・ギータ―』から宮崎スピリッツ「てげてげ」につながるとは思いもせず、その途上に散りばめられた現代犯罪との対比にも読みいってしまいました。
さて、私がいまオーディオブックで聴いている『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリによれば、人類がサピエンス(知恵あるヒト)として歴史を刻みはじめたのは、フィクションの力によるものが大きいということです。つまり人類が今のような存在になるにあたって、物語の力・・・すなわち神話の力は欠かせないのだということでした。
あらゆる神話も、ナショナリズムの精神(「ゲルマン魂」とか「大和魂」とか)も「読み手次第」ということがありますので、これから『バガヴァッド・ギータ―』しかりインド神話に取り組む方には、円さんのような読みを参考にしていただきつつ、フィクションを読み解く方法を自ら築きあげていただきたいところです。
円さんのレビュー中に「バガヴァッド・ギータ―自体が戦闘意欲や征服欲を高めるような力も多分に含んでいる(と思う)ので、残念ながらそっちの方向でのみこれを読んでしまう人も多いかもしれません」とあるように、読み方次第ではどのようにも解釈できる神話・聖典。都合の良い解釈を避けつつ、自由な読みを楽しんでもらえればいいなと思います。
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